2023,12、17
「救い主到来予言」
旧約聖書イザヤ書9:1~7
春名牧師
クリスマスの中心は「神様が人となってやって来られた」イエスキリストです。
やって来られる何百年も前から様々な預言者達を通して「やがて救い主がやって来られる」という預言が何度も何度もあった後にやってこられました。
そして、その通りに成就する形で今から約2000年前にイエスキリストはやって来られました。
1: メシヤの光を仰ぎ見る人達
(1)闇の中で見上げる光
「闇」と「光」のコントラストの中で、私達の人間のどろどろとした世界と、神が与えて下さる鮮やかな光が輝いています。9:1では「先には」と「後には」と言う言葉が対比されて「先には、はずかしめを受けたが」「後には光栄を受けた」となり、「先には苦しみを受けたが」「後には闇がなくなる」と表現されています。9:2も、文が奇麗な印象です「闇の中を歩んでいた」また「死の陰の地に住んでいた」、そういう人達が「大きな光」を見、人々の上にその「光が照った」と記されています。闇の中でこそ輝く光です。それは苦しみや悩み、どろどろした人間社会の暗闇の中にいる人々が仰ぎ見た、神の国の到来の光です。
(2)神の不思議な業
イエス様が来られて多くの働きをされたのは、ガリラヤ地方でした。
しかしそこはユダヤ人達に軽蔑されていた異邦人の土地でした。本当に神様のなさる事は不思議です。
人間であれば、他の家の家族よりも、自分の家族を大切に考えます。
しかし神様はご自身の民であられるユダヤ人達ではなく、そのユダヤ人に犬のような扱いを受けていた、辱めや苦しみを受けていた人達を省みられたのです。
神様のなさる事は独特で不思議です。私達には簡単に神のみ心を知る事が出来ませんし、決め付ける事が出来ません。
現代の私達を取り巻く「闇」とはどの様な闇でしょうか。コロナ以降、経済的な破綻ということが身近に起こっています。リストラや病気、老いなどの問題もあります。
そしてあらゆる闇を作り出す根底には人の「罪」という真実があります。私達は「はずかしめ」や「苦しみ」を受けても、「闇の中を歩み」「死の陰の地に住んでいる」という様な者ではないと思うかもしれません。しかし、やはり闇の中で本当に光り輝く希望を必要としています。人生は諦めてはいけないものです。
力と権力を誇っていた者が一夜にして滅びる事もあれば、「もう私はだめだ」と思っていた人が希望の光を見出すのです。
差別と虐げに苦しんでいた人が、希望の大きな光を見出す。ユダヤ人は異邦人を犬の様に考えていたのですが、神はその異邦人を顧みられたのです。
2 :希望の光キリスト
これは、キリストの光です。キリストを見出した時に私達の心に与えられる希望です。
イエスキリストが真の王として支配しておられる神の国のこの世における進展は、同じ主にある一人一人にとっても嬉しい事です。
(1)刈り入れ時の喜び
今多くの人々が家庭菜園をされていますね。刈り入れ時の喜びは、それはミデヤンの日に例えられています。この例えは、士師記のギデオンがミデヤンと戦った時の例えと思われます。その士師の時代は、イスラエルは、ミデヤンの攻撃にどうする事も出来ない生活をしていました。
例えば農家さんがいくら畑を耕しても、熊が襲ってそれを餌食にしてしまう。そんな苦しい農家さん達の生活に例えられるのが当時のイスラエルでした。
ヨハネの福音書4:35 あなたがたは、『刈り入れ時が来るまでに、まだ四か月ある。』と言ってはいませんか。さあ、私の言う事を聞きなさい。目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています。4:36 すでに刈る者は報酬を受け、永遠の命に入れられる実を集めています。それは蒔く者と刈る者が共に喜ぶためです。
このクリスマスを前に、私たちは魂を追い求める者になりたいと思います。私たちの友人や家族やこの地の人達が、本当の光を見出して神の国に入れるように、祈っていきたいと思います。
(2)分捕り物を取る時の楽しみ
また神の国の到来と進展は、分捕り物を取る時の楽しみにも例えられています。
世界中の教会は問題だらけです。大小関係なく教会は沢山の問題を抱えています。
しかし神の国は勝利と前進のみであることも事実です。後退するように見えても、歴史を通して神の国は前進しています。そして完成するのです。
〇戦利品の例え戦利品の例えは、クリスチャンの劇的な回心に例えられます。パウロの回心であったり、私たちの改心でもあります。初めはサタンに見方し、サタンの陣営にいた者が、キリストによって回心した瞬間から今度はキリストの陣営に置かれ、キリストの為に働くものとされる様になるのです。人間にとってこれ程心を打つ、劇的な転換はありません。パウロはイエスキリストに敵対し、クリスチャンたちを迫害し、クリスチャン達を殺す事に賛成していた人物でした。将棋も敵の強い駒であればある程、味方となった時に、同じ強さを発揮します。パウロの場合はまさに将棋の飛車の様な存在です。
3: 神の国は誰によって
(1)十字架の勝利
喜びに満ちた神の国の勝利はどのようにして与えられるのでしょうか。わたしたちを取り囲む闇の中で苦しむ私達を解放する為に、その罪を粉々に打ち砕いたのは、イエスキリストの十字架の血潮です。私達がどんなにその罪を責められても、又、自分自身が自分をどんなに責めたとしても、キリストの尊い血潮によって私達を罪に定める縄目は粉々に砕かれたのです。こうして私達は苦しみと辱めから解放され光栄を受けたのです。神の国の勝利はこの十字架にあるのです。その様な喜びに満ちた神の国のご支配は、どのようにやって来るのでしょうか。どの様にやって来たのでしようか?
(2)一人のみどりご(イエスキリスト)によって神はただ私達に見えないお方として、世界に君臨するのではなく、具体的にナザレの町で、神を信じるものの普通の家庭に、赤ちゃんとなって来られた…というのは何とも不思議な事です。全人類に救いへの道を開いた救い主は実に人となられたのです。
それはどろどろした罪に苦しむ人間から出た事ではなく、闇の中に照らされた天からの光だったのです。「神の熱心が」光として表わされ、神の国の到来を為し遂げ、その完成へと向かわせているのです。
メシヤの光を仰ぎ見る人達は一体誰の事でしょうか?希望の光とはどなたでしょうか?
神の国は誰によって達成されるのでしょうか?私達はクリスマスの喜びを共にします。
どうか本当のクリスマスが一人一人の上に留まります様に。
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