023.9.10 「私は・・・」
旧約聖書 詩篇116篇 春名牧師
どんなに親しい間柄でも裏切ったり裏切られたりします。しかし神は決して私たちを見捨てたり 裏切ったりしません。
信頼できるお方です。
イエス様が弟子達と最後の晩餐後
賛美を歌って山へと向かいました。
今日でもユダヤ人は過越の祭のお祝いで
この詩篇の聖書箇所を賛美しています。 イエス様も信頼していた弟子達に裏切られ見捨てられました。
たとえ信頼した人たちが自分から 離れて行っても神様だけは支え続けてくださります。 イエス様もこの詩篇116篇を歌いながら励ましや慰めを受けていたのではないでしょうか。 詩篇116篇の内容を見ると
詩篇の作者は死に直面していました。 彼は必死に救ってください、癒してくださいと祈りました。どうか助けてください!と。 神様は彼の祈りをきいてくださりました。
(5節~7節)
1死の床から回復させる神
ヒゼキヤ王に見る死からの回復
(旧約聖書 第二列王記20:1、2) 人は病の向こう側の死に恐れを感じています。人は必ず死を迎えます。 死に直面したヒゼキヤ王は神様に必死に祈りました。その結果、神様によって 彼の寿命は15年延ばされたのです。 その当時、ヒゼキヤ王は国の危機的な状況でストレスを抱えていたと思われます。 そんな状況の中、神様が祈りをきいてくださり命を助けられました。 それは何のためでしょうか? 当時の状況から、アッシリヤの攻撃から国を守るためであったと思います。 神は彼に使命を与えました。それをやり遂げるまでその命を守ってくださります。 神様は私たちを通してこの世界で成し遂げたいことがあるのです。 私たちは神様からの使命を行うために生きているのです。 私たちはこの世界に神様によって生かされているのです。
「新約聖書 ヤコブ4:14 あなたがたには、あすのことはわからないのです。あなたがたのいのちは、いったいどのような ものですか。あなたがたはしばらくの間現れて、それから消えてしまう霧にすぎません。」 ヤコブは私たちの人生は霧のようだと言いました。一瞬のような人生。しかし、その人生を使命 を成し遂げるために生きなければなりません。
詩篇の作者は死のところから回復させられ、新たな心を持ち神様のために生きなければ!と悟り ました。 考えてみれば私たちは一度死にかけた者です。私たちはイエス・キリストを信じる前は広い門から 入って広い道を通っていました。そのまま歩んでいたら、その道は滅びへと続いているのです。 私たちは悔い改め、方向転換をして狭い門から入り狭い道を歩み始めました。この道は天国へと 続いているのです。 私たちも詩篇の作者のように与えられた命を神のために生きていくと決意するべきではないで しょうか。
2:死の床からの回復後の決意
今までは自分勝手な道を歩んでいたかもしれません。しかし、これからは神様に感謝を捧げて生 きていく!という決意が必要です。
新しく命を与えてくださった神への感謝、
これは決して強制や義務ではありません。
「詩篇116:1 わたしは主を愛する。主は私の声、私の願いを聞いてくださるから。」 わたしは主を愛する。
これこそが神に従う動機です。
主は私を愛している。
私は主を愛している。
神様によって救われた感謝と愛が全ての動機の始まりです。 私たちは皆、神様によって救われました。 新しい命に向かうものに変えられました。 神様のために使う人生、これが使命なのです。 限りある人生、今この命を神様のために使えたら後悔のかけら一つ残りません。 御言葉に耳を傾けてください。
神は私たちを 無条件で愛されておられます。
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