2023.6.25 「神と生きる教会」
新約聖書エペソ2:19~22 静観神学生
皆さんにとって教会はどんな所ですか? 教会に行ったり、礼拝の動画配信を見ることの動機はいったい何でしょうか? 幼い頃から行っているから、とか、
ここでしか会えない人がいるから、
交わりが楽しいから...等
色々な理由があると思います。
しかし、理由がそれらしかないのなら 神様が与えてくださっている恵みを取りこぼしてしまっているかもしれません。 私たちクリスチャンはなぜ教会に集まるのでしょうか?
教会は私たちを成長させ、神の国を体験させてくれる場所だと思います。 神様の臨在が教会にあるのです。 「神が生きておられる教会に生きる」と した方が正しい言い方かもしれません。
パウロはエペソの教会へ
福音の奥義はキリストによって明らかにされたと書き始めています。 救いを得た者たちを神の家族だと呼んでいます。逆の意味でとらえると、神様は救いを得た者とそ うでない者達との間にはっきりと線を引いておられます。 このことは排他的に聞こえるかもしれませんが、聖書の始めから記されていることなのです。 神の家族に加わるためには、
罪を告白し、洗礼を受けることと
神が聖であるために、私たちも聖でなければならないのです。 キリストの十字架により私たちは清められており、神の義に加えられているのです。
一般的に家族というものはとても閉鎖的なものです。他の人が入りずらい雰囲気があります。同じ ように、 神の家族も、とても閉鎖的な側面があります。神様はなぜこんなにも内と外を区別されるので しょうか? 神様は一切の不純物を許されない方なので、神の家族は閉鎖的でなければならないのです。 神の国というものは、神の家族同士で組み建てられるもので、一致しておく必要があります。だか らこそ内と外の区別が必要なのです。
パウロはイエス様が教会の要の石だと言っています。 教会ではイエス様だけが主だと告白し、 神の国をこの場所に建て上げると一致した人たちが共に働いています。 教会の内と外を区別することは、
教会がノンクリスチャンに手を差し伸ばさないことではありません。 神様の愛を伝えるために、私たちがまず神の愛で共同体として動かなければなりません。まず、そ のものがなければ、どうにもならないということです。
教会では私たち自身がキリストの品性に造り変えられるという目的もあります。 キリストの聖なる宮の完成は、私たち一人一人が造り変えられなければなりません。
コロナ禍により、教会に集わなくなった方も多くいます。オンラインでいいかな?と思っている 方も多いのではないでしょうか。 私たちが教会に集まることをやめてしまったら、神の国として教会が機能しなくなります。 日曜日に捧げる礼拝が、
この世界に福音の奥義を輝かせていく光となっていくのです。
私が大切に思っていること、それは 礼拝に出席していることそのものが 私たちの内側を造り変え続けてきたということ。 自分自身が神の家族に加えられたことが 神の国の前進につながっています。
大切なことは 1週間のうちに神の福音を伝導していくことです。 イエス様は教会を愛し、教会のために命を落とされました。 私たちは教会を愛し、礼拝を守り続けていきたいと思います。 私たち一人一人はキリストの身体、教会の一部です。
私たちが教会に来る理由、それは 私たちが神を愛し、神の御姿に変えられて 御国の前進のために神に仕えていくことです。 これからも礼拝を共に捧げていきたいと思っています。
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