2023.8.27
「あなたも離れて行きたいか」 新約聖書ヨハネ6:60~67
静観神学生
私達の日常生活は色々なことがあります。一日として同じ日はありません。 今までどれだけの傷を負ってきたでしょうか。またどれだけ人に傷を負わせてしまったでしょう か。一喜一憂しながら私達は日々を過ごしています。
イエス様は集まった群衆約五千人にわずかなパンと魚を感謝を捧げた後に分けられました。彼ら は十分にたべることができました。そんな奇跡を見た彼らでもイエス様に対し、ずっと難癖をつ けていました。
イエス様は信じる者は永遠の命を持ちます。と言われました。 永遠の命を持ちます、とはもう既に与えられているということです。イエス様こそが「いのちのパ ン」なのです。
ここでは聖餐式にも言及されています。 月に一度の聖餐式のパンと葡萄ジュースがキリストの身体と血とに変化することではなく、キリス トの身体と血を象徴したものなのです。キリストの贖いをおぼえるために聖餐式を行います。聖餐 式に出席することで何か不思議な力が働く事はありません。物理的にパンを食べ、葡萄ジュース を飲むだけですが、イエス様は十字架の贖いを思い起こさせてくださります。 教会では、ありのままで愛されているんですよ、と聞いて多くの励ましをもらっても 一歩社会へ出ると、「こうあるべきだ」と要求される社会を生きています。 聖書は神から離れることは罪だと言っています。
何かに心を奪われてしまうこと、 あまりの忙しさに神から離れてしまっている、等あるかもしれません。 そういった罪を定期的に告白し月に一度、聖餐を受ける必要があるという側面もありますが、事 あるごとに赦しを乞わなければならないと考えるのはイエス・キリストの十字架は不完全だった ということになり、罪を赦す十字架を限定的にしてしまうことになります。 この聖餐式というのは、たった一度の十字架が紛れもなく自分の為だったという信仰告白の場で あり、聖餐式にあずかる時に、イエス様がわたしの中に留まり、自分もイエス様に留まっている ことを再確認する場でもあります。
この聖書箇所では弟子達の批判の声が書かれており、多くの弟子達が離れて行きました。聞くと 言うのは賛成し受け入れるという意味があります。
これは今日でも同じだと思います。 語られているメッセージをどれだけ自分のこととして受け入れているでしょうか。 受け入れたくないという気持ちは
自ら滅びを招いていることになるのです。
本当に人を生かすのは神からくる御霊だけです。御霊が人を生かすのだからイエスの御言葉が命の 源であるということです。
しかし、聖書の言葉が単に人々に力を与えるわけではありません。
神の言葉として聖書を受けるためには神の御霊、聖霊が働かなければ何も始まらないのです。あ くまで人を生かすのは神の御霊によるのです。
64節に裏切ると訳されている言葉は悪いイメージしかありません。 原文では「引き渡す」という意味の言葉が使われています。この「渡す」という言葉は新約聖書 で何度も使われており、この言葉によりイエス様の十字架を表しています。 十字架に付けられる前に、物理的に起こる事をイエス様はご存知でした。ユダが裏切るというこ とはあくまでユダの主観なのです。道徳的な責任は最終的に本人に戻ってきます。 イエスを信じ、イエスの御言葉を信じる者は神が引き寄せてくださるのです。 信じない者とは神が与えてくださった者ではないということ、単にその人々が信じなかったとい うことです。 自ら離れていく、自ら不信仰を選んでいった弟子たちです。自分の選択が関わっていくのです。彼 らが離れていく行為を、イエス様はご存知だったでしょう。 彼らが自分の判断で離れるという行為は不信仰を選ぶという責任を負い、自ら滅びを選んでいる のです。
日曜日の礼拝で御言葉を聞き、神と向き合い、こんな自分でも愛されて赦されていると再確認 し、一歩外へ出ると神がいない様な気がするという様な社会が現実にあります。社会的な自分の 立場やストレスを抱え込んでしまう、これが私たちの一週間の姿です。 イエス様は選び出した12弟子に対して言われました。
「あなたがたも離れて行きますか?」 弟子達は自分の死に直面した時に彼らはイエス様を裏切ってしまったのです。この弟子たちも私 たちと何ら変わりはなかったのです。 イエス様はペテロの信仰が無くならないように祈られました。 私たちの信仰が無くならないようにも祈ってくださっています。 あなたが立ち直ったら兄弟たちを励ましてやりなさい、と言われています。 わたし達の信仰が無くならないように今朝も今週も祈ってくださっています。 私たちのためにとりなしてくださっているので、神の祝福をありのままに受け入れることができ るようにしてくださっています。 その恵みの日々を、確かに生きておられる神に期待して一日一日を歩んでいきたいと思います。
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