2024.4.26
「慕い求めます」
旧約聖書 詩編119:169~176
春名牧師
聖書が教えている神様はこの世界、私たちを造られた創造者なる神様です。神が人の姿をとってこの世に来られたお方がイエス・キリストであり、神ご自身がどのようなお方であるかを私たちに示されました。「人の子は、つまり私が来たのは失われたものを探して救うために来たのです。
ルカ19:10」神の元に帰ろうとする人間の姿と、一生懸命その人間を探し求める神の姿が対比されて語られているので、詩篇119篇と放蕩息子の例え話を合わせて考えてみましょう。
1 人間の罪
聖書は「自分が失われた人間なんだ」と自覚して読まなければ理解することはできません。
イエス様は「医者を必要とするのは病人です」と言われました。自覚症状のない病はどんどん進行してしまうので、その状況が一番危険です。聖書は「造り主なる神様から離れてしまった人間は滅びつつあるんだ、壊れつつあるんだ、死につつあるんだ」と警告しています。
放蕩息子の話では、息子は父の財産にしか興味がありませんでした。そして財産だけもらい父の元を離れたのです。この例え話と同じように、父の存在、神の存在を認めない、神の存在と無関係な生き方をすることは人間の最大の罪なのです。
2 神を求める熱望
神など必要ない!自分の力で人生を切り開いていく!という生き方は人生を豊かに生きることは出来ません。放蕩息子も父から離れ遠い国へ旅立ちました。しばらくして財産はなくなり飢饉が起こり食べる物もなく豚の世話をする仕事に就きました。父親から離れ、落ちる所まで落ちてしまったのです。私たちが自分の人生の不条理に気が付いた時、帰るべき所は天の神の下です。イエス様は「私を信じる者は死んでも生きるのです」と言われています。私たちの罪の代わりに死んで下さり、私たちの罪を赦し、キリストは3日目に甦り死の問題を解決しました。そして、信じる者に永遠の命を与えて下さったのです。
3 神の赦しと救い
放蕩息子は、自分がこんな大変な状況になったのは父から離れたからだと気づき、我に返り、父の元へ帰るのです。父は息子の帰りを毎日毎日待っていました。姿が見えた瞬間に何度も抱き寄せ口づけしました。息子が帰ってきた!それが父の大きな喜びでした。
同じように私たちも神様の元に帰る時に立派な理由など要らないのです。
聖書には「悩み苦しむ者の毎日は悪い事のみ、心に楽しみなる人には毎日が宴会である」とあります。私たちはこの天の神様の祝宴に招かれています。そこには喜び、笑い、賛美、感謝、愛が溢れています。
私たちを取り巻く社会の状況、否定的なニュースを私たちの心の中にまで入ることを許さないでください。皆さんの心には天の祝宴が待っています。どうぞこの喜びを奪われないようにしてください。神の救いを慕う、そういう一週間でありますように。
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