2024.1.14
「船の右側に網をおろしなさい」
新約聖書ヨハネ21:1~14
ドウゲン牧師
イエス・キリストが十字架に架けられた後、復活されて3度目の弟子たちとの出会いの場は彼らが漁をしているところでした。
弟子たちは故郷を離れてイエス様に従って信仰生活を送っていましたが、
イエス・キリストの死と復活を見聞きし、落胆や戸惑いなど様々な感情に振り回されどうしていいか分からくなり元の職業である漁師に戻りました。
人間はどうしていいか分からない時、慣れた場所へ戻ろうとすることがよくあります。
しかし、一晩中漁をしても魚が獲れないという更なる挫折を経験しました。
新約聖書ヨハネ15章には「私から離れては何もできません」というイエス様の言葉があります。
何もできないという環境で、自信のある領域だとイエス様がいなくてもできると思ったのでしょう。
一晩中何も獲れなかったのに、そしてその人がまだイエス様だと気づいていなかったのに
「船の右側に網を下ろしなさい。そうすれば、とれます」と言われてなぜ素直に従ったのでしょうか。言葉に威厳を感じたのか、直感的または挫折のために何でもやってみようと思ったのか
実際はどうなのでしょう。理由は聖書に書かれていないので推測ですが、立派な信仰からではなかったと思います。
クリスチャンは時々、「神の声を聞いた」とか「神の導きを感じた」などと言いますが、それはどういう経験でしょうか。キリスト教用語を使うと信仰が強いように見えますが、私たちは実際には不安や悩みが多いものです。しかし様々な形で直感的に「これは神の声だ」と分かることがあります。そしてそれが本当に神からのものならば、結果が出ます。ここでは153匹の魚が獲れました。
ちゃんと数えられて大量なのに網は破れなかった。
不可能に見えてもそれが可能になり、本当に神の御心ならば結果が表れるのです。
また、「子どもたちよ。食べるものがありませんね」とイエス様は言われました。
これは霊的な話ではなく、イエス様の優しい言葉です。
本当の信仰の姿は、神様の備えを期待し、いただいて感謝することです。
そして、困っている人に手を差し伸べて助けることです。
主の備えは不思議な形で成されることが多いのです。
船の右側なのか、左側なのか、それは問題ではありません。
キリストは弟子たちを最初に召した時に「人間を獲る漁師にする」と言われました。
ここで魚を捕らせたのは、自分たちの力だけでは何もできず、キリストと共にいる時に、
収穫があることを学ばなければならなかったからです。
私たちも神に用いられることは、そう難しいことではありません。
何らかのテクニックを見つけたり、新しいプログラムを始めたり、
良い牧師になるということではありません。
我々の信仰は日常の中にあるべきです。血液が身体全部に流れるようにあるべきです。
神に用いられるためには、素直に言われた時に、神の導きに従うことです。
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