2024.2.11
「主の安息」
旧約聖書 出エジプト20:8~11
静観神学生
イエス様は安息日にベテスダの池で病気の人を癒した(ヨハネ5章)ことでユダヤ人たちから
「安息日を破った!」と命を狙われるようになりました。
私たちは「安息日を覚えてこれを聖なる日とせよ」と聞くと、安息日である日曜日に必ず礼拝へ行かなければならないと思ってしまいます。
今日のイスラエルにおいても、安息日は何もしてはいけない日だ、という教えがまだ残っています。
イエス様はそういった間違った教えに立ち向かわれました。
旧約聖書創世記には
神が6日間で天と地と海、またそれらの中のすべてのものを造り、7日目に休まれたことが記されています。
そして、「神はご自分が造ったすべてのものを見られた。見よ、それは非常に良かった。夕があり、朝があった」と続きます。
これは神様が休日を取る前日のことです。ご自分のすべての働きを「非常に良かった」と見返しておられます。
そして「神は第7日に、なさっていたわざを完成し、第7日に、なさっていたすべてのわざをやめられた。神は第7日を祝福し、この日を聖なるものとされた。その日に神が、なさっていたすべての創造のわざをやめられたからである」
神様は7日目、ご自分の成された一つ一つを祝福し休みを取っていかれました。私たちの休みの取り方も神様に倣って「非常に良かった」と一週間を振り返る姿勢が必要ではないでしょうか。
また、私たちが休もうとする時、私たちには「やめるべきものがある」と聖書は語ります。
「聖とする」という言葉は「取り分ける」という意味があります。人生の中で私たちはやめるべきものがあり、取り分ける時間が、場所が必要なのです。
神様が今朝私たちに「やめよ」と言われているものは何でしょうか。
神様の声が聞こえなくなるほど忙しくなっているのなら、それをやめる必要があるのかもしれません。慌ただしい毎日の中で休日に眠っても回復しない疲れがあります。「魂の疲れ」というものを人は持っているのです。
安息日に、聖なるものとすることで神様が与えてくださったのが、この日曜礼拝です。礼拝は、私たちの生活を意図的に止めてくれるものです。そこで神様の言葉を聞きながら生きていくこと、
自分は神のものとして生きるのだということを礼拝で神様は教えています。この礼拝にこそ、魂の真の安息があるのです。神はあなたの人生、この一週間は非常に良かったよ、ここでその疲れを癒しなさい、私に委ねなさい、と仰っておられます。だから私たちは、また一週間を生きていけるのです。
そして、神は私たちが安息を与えていくような人々になってほしいとも願っておられます。
自分に属する人々にも休める環境を与えることです。神様は教会から遣わされていく人々が休みをもたらしていくような、安息を与えるような、そんな人生を生きていってほしいと願っておられます。私たちはこの安息「休み」を選び取っていくことで、この日曜日の礼拝を選び取っていくことで世界に証することになります。私たちの人生をそのように用いていってほしいと思います。
今週もこの神様と共に生きていくことを選び取ってほしいと思います。
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